編集者が越えてはならない線のこと
私は今、出版社やメディア業界の外に「編集者が自ら育つ環境」を作るチャレンジをしています。
「世に生み出されるコンテンツの量に対して、編集者の数が圧倒的に足りないのでは?」という問題意識があるからです。
出版社に勤務していたときでさえ、隣に座っている編集者がどんなポリシーを持ち、どんな赤字を入れているのかは「ブラックボックス」でした。
その「ブラックボックス」のフタを開ける、つまり「編集の手の内を明かす」ことで、編集者になりたい方が自身が編集する際のヒントにしてもらおう、というのがコンセプトの1つです。
普段自分が感覚的にやっていることも、他人に伝えるためには「あえて言語化する」必要があり、私自身にとっても良い学びの機会となっています。
編集者の禁じ手とは
「編集」「編集者」に関する書籍は何冊もありますが、驚くほど人によって定義が異なります。「こんなに解釈の幅が広い仕事もあまりないのでは?」というくらい。
ただ、全編集者の同意を得られるであろう事実は、編集者はあくまで文章を「編む人」であり、文章を「書く人」ではないということ。
私は、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、意味やニュアンスを「足す」「変更する」赤字を入れるのは、書き手の領域に足を踏み入れる行為だと思っています(あくまで個人的見解です)。
もちろん、言葉やニュアンスを新たに加えるよう進言することはあります。その場合、私はなるべく「こうしてみるのはいかがでしょうか?」という例文を、コメントとして書き入れるようにしています(もちろん配慮が足りないときもあるはずです。そんなときはきっと、私が書き手の方に対して甘えがあるはず。思い当たる節がある方、すみません)。
私が編集者の「赤字」の範疇だと思っているのは、以下の通りです。
・文章の順番を入れ替える。
・言葉の順番を入れ替える。
・ぜい肉言葉(〜など、〜とか)をカットする。
・重複している部分、なくても伝わる部分をカットする。
・同じ意味で、より伝わりやすい言葉と入れ替える。
・てにをはを変更する。
編集者の仕事は「入れ替える」「削る」といった同等変換かマイナスする作業のみ。意味やニュアンスを「足す」「変更する」場合は、極力慎重になったほうがいいと思っています。
編集者が越えてはならない線が、そこにある気がするのです。
「さじ加減」の難しさ
書き手にとって、書いた文章はその人そのものです。尊敬の念を持って真摯に向き合い、傷つけないように丁寧に、大切に扱いたい。
そのため、すでにお伝えしたように「足す」「変更する」提案は、極力慎重に行うよう心がけています。
ただ、はじめて編集作業をする人にとって、このあたりの「さじ加減」を把握するのってすごく難しいと思うんですよね。「1から4まではNG、5から8までならOK」と数値で判断できるものではないし、書き手との関係性によって変動することもあるし、すごくファジーなものなんです。
私だって、いまだに正解がわかりません。毎回毎回手探りです。
また、「足す」「変更する」行為を慎重に取り扱ったとしても、赤字を受け取る書き手に、その真意が伝わらないことも往々にしてあります。
つまり、編集者の役割の範囲内の仕事、具体的には
・文章の順番を入れ替える。
・言葉の順番を入れ替える。
・ぜい肉言葉(〜など、〜とか)をカットする。
・重複している部分、なくても伝わる部分をカットする。
・同じ意味で、より伝わりやすい言葉と入れ替える。
・てにをはを変更する。
という意味合いの「赤字」であっても、「傷つけられた」と受け取る人がゼロではないということです。
そう受け取るのが「ダメだ」というわけではなく、「反射的に『傷つけられた』と感じてしまう人が一定数いる」という現実から、目を背けてはいけないなと感じています。
目的を共有し、信頼関係を築く
文章を編集する目的は、「伝えたいことがきちんと伝わるようにする」ことです。
そのために、文章の流れを整えることです。離れている点と点をつなぎ、文脈をきちんと描くことです。
この目的を共有し、書き手と編集者が横に並んで一緒に進んでいくためにも、「編集者はどういうことをする人か」をもっと伝えていかないといけないな、と感じています。
あなたの文章を否定しているわけではなく、それだけ真摯にあなたの文章と、つまりあなた自身と向き合っていることが伝わるように。
編集について、編集者の仕事について、もっと広く知ってもらいたい。それによって、事前に信頼関係を築きたい。
そんな思いを日々強くしている今日この頃です。