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娘を好きになれる自信がなかった

今回はガラッと話題は変わって、子育ての話。

わが家には11歳の思春期に片足を突っ込んだ娘と、8歳のまだまだ幼い息子がいます。
来年、娘は12歳。母になってから、もうすぐ干支が一巡するなんて感慨深いです。

子どもを産んだ瞬間に「かわいい!」と感動の涙を流せる人がいることは知っていますが、わたしは感動よりも出産を終えた安堵感のほうが大きかった。

確かに「自分のお腹から出てきたわが子」ではありますが、「かわいい」よりも「これがお腹の中に入っていたんだ!」という驚きのほうが勝っていました。

生まれてすぐ、カンガルーケアのため胸元に置かれた娘。
まるで自分の内臓が胸元でうごめいているようでした。

ついさっきまで「わたしの一部」だったものが、切り離されてここにある。
とても不思議な感覚でした。


子育てを始めるにあたって、わたしはそこはかとない不安を抱えていました。
それは「わが子をかわいいと思えるか?」「心の底から慈しむことができるか?」という不安。

その理由のひとつに「同じ女性だったから」というのがあったと思います。
同じ性別というだけで、自分と同一視してしまう危険性をはらんでいる。
無意識のうちに、そう思っていたのでしょう。

わたしは自分のことがあまり好きではありませんでした。
だからこそ、「自分の一部だった」娘のことを好きになれる自信がなかったのです。

娘は自分と違う人間だと確認する日々

娘はとても過敏な子でした。
とにかくよく泣く、ぐずる。寝たと思っても置くと泣く。

生後1カ月半くらいからは黄昏泣きが始まり、18時から数時間狂ったように泣き続ける。
離乳食を食べない(1歳過ぎまでほとんど食べませんでした)。
1歳過ぎてハイハイもしない。歩きもしない。やせっぽちで体重がなかなか増えない。

神経過敏で気難しいところが、自分とオーバーラップしました。

かわいいと思う瞬間ももちろんありましたが、意思の疎通がまだ取れない時期というのもあり、自分の気持ちに確信が持てませんでした。とにかく娘の命をキープするだけで精一杯。

ただ、弟である息子が生まれた2歳ごろから、娘独自のキャラクターが少しずつ顔を出すようになります。

自分とは違う娘の一面を発見する日々。
それらを発見するたびにわたしは新鮮な驚きを感じ、素敵だなと尊敬し、娘のことをどんどん「他人として」愛せるようになりました。

自分と違うから愛せたんです。ああ、わたしとは違う人間なんだ、よかった……と。

よく子どもを自分と同一視してしまい、私物化する親が問題になりますが、わたしはむしろ逆。
娘が自分と違う人間であると確認するたびに安堵していたところがあります。

同じ感覚を持ったことがある人、いるでしょうか。もしかしたら少数派なのかもしれませんが。

幼さが抜けていってもかわいさは増す

そして今。11歳になった娘は、わたしとまったく違うキャラクターであることが判明しています。

空想の世界が好きで、夢見がち。
好きなことは好きだし、揺るがない。
女の子がみんな通るといわれる道をほぼ通らず。
人に合わせる大人しいキャラに見えて、実のところまったくそうではない。
がんばるより楽したい。

もちろん似たところもあります。でもね、それもひっくるめてかわいいんです。

「かわいがれないかも」という不安を抱えると同時に「自分より秀でたところがあったら嫉妬するかも」という変な恐れがあったのですが、杞憂でした。

娘がわたしより優れたところがあると、むしろうれしい。どんどんわたしを超えていってほしい。

心の底からそう思えた自分を、ちょっとだけ好きになれました。


11歳にもなると、身長もそれなりにあるし、靴も大人サイズだし、見た目の幼さはどんどん失われていきます。
生意気な態度もとるようになります。

でも、親として子どもに感じる「かわいさ」「愛おしさ」って、一緒に過ごす時間が長くなるにつれて増すように感じるんですよね。


娘を産んだ11年前の寒い4月。
わずかに残る雪を産院の窓から眺め、漠然とした不安を抱えていたあの日のわたしに「大丈夫だよ。日々の積み重ねが少しずつ不安を消していってくれるから」と伝えたい。

赤ちゃんのころより、ヨチヨチ歩きのあのころより、たどたどしく話しかけてきてくれたあのころより、今のほうがずっと、わたしは娘のことが好きです。

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