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本って何だろう?

書籍編集に長く携わってきたわたしですが、最近「本って何だろう?」とよく考えます。

一般的に「本」というと紙の書籍を指しますが、最近は紙の本とほぼ同じタイミングでKindle本(を含む電子書籍)も発売されることが多いですよね。

Kindle本も、「本」としての地位を確立したなぁと感じます。

出版社を介さない個人のKindle出版もだいぶ定着してきましたよね。

商業出版は紙の書籍を作ることを前提としていますから、読み物系の本は約200ページ、文字としては10万字ほど書く必要があります。

しかし、Kindle本は文字数が少なくても「本」としてまとめることができます。厚みが必要ないですからね。

そんなこんなで、Kindle本を作る技術(正確にいえばKindle本を作って出版する仕組み)が整ってくると、

何をもって「本」と呼ぶのか。「本」と「そうでないもの」をわけるものは何なのか?

このあたりがどんどん曖昧になっていくのを感じます。
今回は、そんな「本の定義」について考察していきたいと思います。


「旅」と「散歩」を分けるもの

話は打って変わりまして。皆さん、「旅」という言葉を聞いたとき、どんなものを思い浮かべますか?
「1泊、あるいはそれ以上の宿泊をともなう旅行」というのが一般的なイメージでしょうか。

宿泊をともなわない「日帰り旅行」もありますが、いずれにしても「日常を過ごしている『家』からある程度遠くまで移動して非日常を体験すること」を「旅」といいますよね。

では、「旅」と「散歩」の違いって何なのでしょうか?
単に移動距離の長さや、移動にかかる時間の違いなんでしょうか。

あなたは「旅」に出たとき、どんなことをして楽しみますか?
観光地を巡って景色を楽しんだり、その土地ならではの食べ物を楽しんだり、という感じでしょうか。

では、あなたが家の最寄り駅から15分ほど電車に乗り、今まで降り立ったことのない駅に立ち寄ったとします。
そして、街を歩いて景色を楽しみながら、珍しいお店を見つけたり、評判のごはんやさんに立ち寄ったりしたとする。

これは「旅」でしょうか? それとも「散歩」なのでしょうか?

たとえば、技術がめちゃくちゃ発達して、東京から京都まで15分で移動できるようになったとします。
そこで同じように街を歩いていつもと違う景色を楽しみ、ちょっと観光して、評判のごはんやさんに立ち寄ったとします。そして、光の速さで家に戻る。

これは「散歩」なのでしょうか。それとも「旅」なのでしょうか。

だんだんと境界線が曖昧になっていくのを感じませんか?

このように、技術が発達すると境界線が曖昧になってくるものって意外と多いんじゃないかと思うのです。

ここでは「旅」について考えてみましたが、同じようなことが「本」の周辺でも起こっていると感じます。


「書籍」と「Kindle本」の境界線を考察してみる

まず、「本」を虫めがねで細かく見ていきましょう。

「本」をじーっと見ていると、「モノとしての本」「コンテンツとしての本」、それから「体験としての本」の3つの要素が見えてきます(わたしの場合ですけど。どうですか? 見えてきますか?)。

  • モノとしての本=紙
  • コンテンツとしての本=著者の考えや情報、ストーリー
  • 体験としての本=読書体験。読書をする時間。広がるイマジネーション。書籍であれば紙の質感や色合い、重量感。

「本が好き」と言うとき、その人は本のどの要素を「好き」と表現しているのか? が個人的にすごく気になっています。
人によって上の3つの要素の「好きの比重」が異なるように感じるんですよね。
でも、あえて言葉で語られることは少ない。気になる。

書籍(紙の本)は上記の3つの要素すべてを持ち合わせています。

Kindle本は「モノとしての本」の要素はありませんが、「コンテンツとしての本」、それから「体験としての本」の要素は持っています。
Kindle本を耳読する場合は、紙の本とはまた違った読書体験になりますね。

書籍Kindle本、このように細かく見ると構成する要素は若干異なりますが、Kindle本が一般化すればするほど「モノとしての本」の重要性は薄れ(ある分野に限られますが)、「書籍」と「Kindle本」の境界線は曖昧になってきます。


「商業出版」と「個人出版」の境界線を考察してみる

次に、「Kindle本」を虫めがねで細かく見ていきましょう。

Kindleのサイトを見ると、商業出版された本のKindle版と、出版社を通さず個人で出版されたKindle本が同じプラットフォーム上に混在しています。

「商業出版」「個人出版」の違いはあれど、同じ場所に同じような顔(デザインがダメダメなのはちょっとアレですが)をして並んでいますよね。

この2つの決定的な違いは何でしょうか?

「出版社を介しているか否か」です。

では「出版社を介したもの」と「出版社を介していないもの」の違いは何か?
大きな違いは編集者や校閲者などの「第三者の目でチェックされたかどうか」だとわたしは思っています。

では、編集者や校閲者によってきちんとチェックされた個人出版の本は?

だんだんと境界線が曖昧になってきませんか?

「著者や内容のバリューが違う」というのもあるかもしれません。
では、商業出版でバリバリ本を出している売れっ子の方が、個人出版として出すKindle本(第三者によるチェック済)は?
商業出版のKindle本と、どう違うのでしょうか?

このように「商業出版」と「個人出版」の境界線も、これからどんどん曖昧になっていくとわたしは考えています。

もちろん、紙の書籍の商業出版とKindleの個人出版では、「書店に置かれるかどうか」という大きな違いがあります。そのあたりは、商業出版の最大のメリットですね。

前回の記事で商業出版のメリットについて触れているので、よろしければご覧ください。


「Kindle本」と「Web記事」の境界線を考察してみる

すでに触れたとおり、Kindle本は商業出版の本よりも少ない文字数で「本」として出版できます。

ではメディアで書いたWeb記事を数本集めて、Kindle本として発売したとしたら?
それは「本」といえるのでしょうか?

メディアに掲載したのであれば、第三者の目でチェックされているはずです(媒体によるかもしれませんが)。
第三者のチェックを経たものであり、それがまとまってKindle本になっているのであれば「本」として認識されますよね。

もとは「Web記事」だったけれど、まとめると「Kindle本」になる。
もはや「Kindle本」と「Web記事」の境界線も曖昧です。


もはや形式なんてどうでもいいんじゃない?

冒頭の「旅」と「散歩」の話に戻ります。

遠方であれ、近所であれ、体験することや心持ちが「旅」と同じなのであれば、それはもう立派な「旅」なのではないか、とわたしは思います。

コンテンツとして同じ、つまり「本質は同じ」ということです。

移動距離や移動時間や、泊まりがけか日帰りかに関係なく、体験した人の心が旅をしたのなら、それは「旅」なんです。
「こんなの旅っていえない……散歩程度かな」なんて卑下しなくていいと思うんです。


「本」についても同じ。紙の本も、Kindle本も、商業出版の本も個人出版も、それこそWeb記事が集まったものも、「読んだ人の心が旅をした」のであれば、そのコンテンツは読んだ人にとって立派な「本」なのです。

というか、みんなコンテンツであることに変わりはない。ただ形式が違うだけ。

もちろん、コンテンツ自体の出来不出来や、読む人によって響く響かないの違いはあります。
著者の権威性、専門性を感じるかどうか、それを重要視するかしないかも読む人次第。

ただ、形式自体には優劣なんて存在しないし、本質的には一緒だよね。

もし優劣をつけて見てしまうのであれば、それは見る人の心が勝手に作り出した幻想、色眼鏡でしかない。


わたしはいつも同じ姿勢で、同じ心持ちで、誰かが生み出した宝物のようなコンテンツと向き合っています。
そのときの自分は、出版社の編集者として働いていた自分と、本質的に何ら変わりはないのです。
形式が変わっただけ。

少なくとも、わたし自身はそう思っています。

そんなわたしをどう見るかは、あなた次第。

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