「わたしの夢」という作文が書けなかった理由
あなたは夢を語れる人ですか?
夢を語れる人とは、理想や妄想をポジティブな状態のまま抱えられる人。そして、その素晴らしさを人にプレゼンし、ワクワクするイメージを共有できる人です。
最近、「夢という曖昧でポジティブな理想を抱え続けられること」もひとつの才能だと思うようになりました。
「ネガティブ・ケイパビリティ」ならぬ「ポジティブ・ケイパビリティ」。
なぜそう思うようになったかというと、わたし自身が夢を持ったり、語ったりできない人だからです。
夢を曖昧かつポジティブな状態のまま抱え続けることができない。曖昧なまま、人にシェアすることもできない。
目の前にもやっとした「曖昧な課題」があったら、「どうやったら実行できるか?」「実行するための具体的なステップは?」「起こり得る問題は?」を考えて、段取りを組もうとしてしまう。
そして、失敗しそうな部分に目が行き、「失敗を回避するためには?」をぐるぐる考え始める。
曖昧でポジティブなものを、曖昧ではなく具体的にしてしまう。ポジティブの中にネガティブを見つけてしまう。
そのため「実行できなそうに見える、魅力的だけど得体の知れないもの」を抱え続けることができません。自分のキャパシティを超える大きな「夢」を持てない。いわゆる「小さくまとまってしまう」タイプです。
「わたしの夢」を書けなかった幼い頃
「夢を語れない」自分について思いを巡らせていたときに、ふと幼い頃の記憶がよみがえってきました。
小学生の頃、「わたしの夢」というタイトルで作文を書かされたこと、ありませんでしたか?
わたしはあれが大の苦手でした。文集の自己紹介のフォーマットにある「夢」の欄も嫌いでした。
クラスのみんなは「サッカー選手」や「野球選手」「幼稚園の先生」などと作文や文集に書いていましたが、「夢って仕事なの?」という疑問をぬぐい切れなかったのです。
そのときのわたしはまだ「仕事」を経験したこともなければ、「仕事」とは実際にどんなことをすることなのかも知りませんでした。ましてや個々の職業にどうやったら就けるのかも知りません。
知りもしないのに「こんな仕事をするのが夢です」なんて無責任なことは書けないとも思っていました。
仕方がないから、しばらく白い原稿用紙と向き合った挙句「たくさんの犬と一緒に暮らしたい」と作文に書いたし、文集の「夢」の欄には「平和な暮らし」と書きました。
こんなこともありました。
6年生のとき、「校長先生とのお話会」という、班ごとに校長室に行って校長先生とお話するというイベントがありました。そこで校長先生が、端から順番に子どもたちに「夢」を発表させたのです(拷問)。
そして、順番が回ってきて言葉に詰まったわたしに、校長先生は「何でもいいからとりあえず」答えるよう促しました。
沈黙とみんなの視線が痛くて、わたしは仕方なく「……獣医さん」と小さな声で言いました。獣医さんになりたいなんて一瞬も思ったことがないのに。
わたしの嘘八百の答えを聞いて、満足そうにうなずいた校長先生の顔をいまでも覚えています。
幼いわたしは、大人が子どもに語らせようとする「夢」に疑問を感じていたわけですが、それを口にすることはありませんでした。幼いながらも「余計な疑問は持たないほうがいい」「こんな疑問に正面から答えてくれる大人はいない」と何となく感じ取っていたのでしょう。
同じような疑問を持っている子はまわりにいなかったし、そんなことにこだわる自分は大人から見ると「かわいくない子ども」なのだとわかっていました。
きっと幼いわたしは「わたしの目標」というタイトルだったら作文も文集も迷いなく書けたはずなのです。「目標」という言葉には、具体的でリアリスティックな響きがあるから。「夢」のように、曖昧でキラキラした響きがないから。
自分の得意は案外マイナスだと思っている面に宿っているのかも
ここまで思いを巡らせて、はっと気づきました。
幼い頃から、わたしは「夢を語る人」ではなく、「責任を持って発言したい人」「実現するために実行したい人」だった。
「夢」と「目標」といった言葉のニュアンスの違いに敏感だった。
みんなが「当たり前」と思うことに疑問を持っていた。
ああ、全部いまの編集という仕事に生きているじゃないか。
あの頃のわたしは、夢を無邪気に語れない、大人の期待に応えられない自分はかわいくない「ダメな子」だと思っていたけれど、そこにわたしの得意が宿っていたのです。
最近、また「夢を語れない」自分に嫌気が差していたのですが、きっと「夢を語れない」ことはわたしの強みでもあるんですよね。
夢が語れないわたしは、誰かの夢を実現するお手伝いができる。
「夢」という作文の課題を前に立ちすくんでいたあの日のわたし。
真っ白な作文用紙を前に仕方なく鉛筆を走らせたわたし。
その場しのぎの「夢」をでっちあげて、後味の悪さを感じていたあの日のわたし。
大丈夫だよ、そこにあなたの得意が詰まっているから!
自己理解は年の功
こういった自分の気質、特性に気づいたのって、実はつい最近のことです。
40も過ぎて何言っちゃってるのって感じですけど、それくらい自分のことって見えにくいのだと思います。
若い頃は未来の自分に期待していました。努力すれば理想の自分に近づける、苦手なことは努力すれば克服できる、容姿だって努力すれば自分の理想に近づけると信じていました。
でも、短い足はどうやったって長くならないし、小さい爪はどうやったってマニキュアが似合うシュッとした爪にならない。多くの人に囲まれて賑やかに過ごす自分になりたいけど、実際は大人数が苦手だし、帰り道は1人のほうが気楽。
そんなことに1つ1つ気づいていって、良くも悪くも自分の可能性をあきらめていく。
できない自分、ありのままの自分を知って受け入れていくプロセス=「年齢を重ねる」ことなんだと思います。
でも、もしかしたら「できない」とコンプレックスを感じていること、「できない」とあきらめてきたことをそっと拾い上げてじーっと観察してみると、裏側にたくさんの強みが隠れていることに気づけるかもしれません。
あなたの「できない」ことは何ですか?