私はあなたと対話がしたい
私にとって学生時代(中・高・大)は、決して楽しいものではありませんでした。心にずっと違和感を抱えていたのです。
何に対しての違和感か。友だちと上っ面の会話をする「自分」に対する違和感です。
好きな俳優やドラマ、おいしいお店や「誰々ちゃんが誰々ちゃんを嫌っている」だとか、そんなことは私にとって正直「どうでもいい情報」でした。
それよりも、私はその人が「本当に考えていること、思っていること」を知りたかった。あなたはどう思うのか、なぜそれが好きなのか、なぜ嫌いなのか、なぜそう思うのか、心の本当の声を聞きたかった。上っ面の会話から、そんな本音が聞こえてくることはありませんでした。
何となく大人数で集まって、何となく楽しい風の時間を過ごせば、みんな満足なんだろうな。でも、私は違う。
インターネットがなかった学生時代の私にとって、自分が身を置ける世界は「数」も「広さ」も限られていました。
1人になるのは怖い。その恐怖を回避するためだけに同調している自分、何となく楽しいフリをしている自分に違和感と嫌悪感を覚え、苦しんでいたのです。そのうちに、自分の外面と内面がどんどん乖離していきました。
今思うと、自分が上っ面だったから、周りの友人にも「上っ面感」を感じていたんでしょうね。でも、若い私はその事実に気づけませんでした。
「上っ面感」に苦しみながらも続けてきたこと
学生時代、人間関係の「上っ面感」に苦しんできた私ですが、そんな中でも長く続けてきたことがあります。それは「吹奏楽部に所属し、みんなで合奏すること」。
小学校の吹奏楽部が大会で賞をとるような有名校で、周りに吹奏楽部に所属する友人が多かったこともあり、5年生のときに入部することにしました。軽い気持ちで参加したものの、続けるうちに合奏する楽しさにどんどん引き込まれていったのです。
みんなで心を合わせて、聴く人の心に届く演奏をする。それぞれ違う役割をこなし、お互いを生かし合い、支え合いながら1つの曲を最高の形に仕上げていく。
「聴く人の心に演奏を届ける」ためには、「どういう気持ちを込めて演奏すればいいか」「どの技術を向上させる必要があるか」など、意見を交わし合い、改善していく必要があります。そして、聴く人の心を震わすためには、まず自分たちの演奏で「自分たちの心を」震わせないといけない。
それこそ、上っ面じゃいられない。
人間関係における「上っ面感」には常に悩んでいましたが、「上っ面じゃいられない」合奏そのものは、きっと好きだったんだと思います。だから、なんだかんだいいながらも、長く続けることができたのです。
「上っ面感」に悩み続けた雑誌編集者時代
学生時代、先輩後輩と上手に渡り合い、スマートにコミュニケーションをとれる人たちをうらやましそうに眺めては、「私は人間関係を築くのが苦手なんだ……」と自信をなくしていた私。
そんな状態のまま社会人になったわけですが、最初に入った会社(雑誌系の出版社)は、先輩も同期の仲間も「コミュニケーションおばけ」みたいな人ばかりでした。出だしからその華やかさに気圧されて、さらに自信を失うという負のスパイラルに突入(笑)。
上司や、いわゆる「社会的に名の知れた人たち」と対等かつウィットに富んだ会話を流れるように展開し、おしゃれでおいしいお店をたくさん知っていて、上っ面の会話(新人の私にはそう見えた。上っ面ではない部分も多分にあったはず)を卒なくスマートにこなせる人たち。
かっこよすぎる。追いつけない。
雑誌編集の仕事自体はおもしろかったし、編集のイロハを丁寧に教えてくれた先輩や、いわゆる「プロ」と呼ばれる各界の著名な人たちには感謝しかありません。
ただ、先輩や同期のようにスマートに振る舞えない自分、興味のない情報に興味のあるフリをしなければならない(と思っていた)上っ面な自分への違和感に、引き続きもがき苦しみ続けていました(根深い)。
書籍編集者になって気づいた心の声
転職し、書籍編集の仕事に就いてからも、相変わらず社内の大勢の人とのコミュニケーションは苦手でした。
でも、仕事を進める際に関わる人の人数がぐっと減り、裁量権が広がったというのが雑誌編集とは大きく違う点でした。著者さん、デザイナーさんと個別にじっくり意見を交わし合いながら、1つの作品をみんなが納得いく形で仕上げていく。書籍編集の仕事には「上っ面感」がなかったのです。
その分野のプロの方が、私の「わからない」「なぜ」「もっとこうしたら」に真剣に向き合ってくれる。不器用ながらも、感じた小さな違和感を言葉にすることで、もちろん反論されることもあるけれど、その人が本当に思ったこと、心の声を伝えてくれる。
そうだ、私はこうやって人とまっすぐ向き合って対話をしたかったんだ。上っ面じゃなくて。その人が何を大切にしているのか、その人の言葉できちんと伝えてほしかったんだ……。
文章を編集する際、私は質問や指摘のコメントをたくさん書きます。赤字も人よりたくさん入れるほうかもしれません。
それに対して「でも、ここにはこういう思いがあるんです」という一見反論に見えるコメントをもらうことがよくあります。その思いを受け止めるとき、人によっては嫌な気持ちになるかもしれません。でも、私は少しうれしくなります。
だって、それはその人の本当の心の声だから。
違いを感じたとき、その人は「自分の輪郭」を感じたはずなんです。そして、私は相手から「違いを感じたよ」という言葉を伝えてもらうことによって、その人の「心の輪郭」に触れられるんです。
それってすごく価値があることだと思いませんか?
人は他者との違いを感じることでしか、自分を認識することができません。違いを感じる瞬間は「ざわっ」とした感覚だったり、「ざらっ」とした手触りだったり、決して心地よい体験ではないかもしれません。
でも、その違和感は「確かに心が触れ合ったこと」の証明でもある。
私はこれからもこの仕事を通じて、傷つき、悩み、言葉を選び、伝え、折り合い、苦しさと楽しさを同時に感じながら、心が触れ合う体験をしていくのでしょう。
私は編集の仕事を通じて、「あなたと対話がしたい」という心の欲求を満たそうとしているのかもしれません。