「書く」動機の純度について考えた
ネット上に自分の言葉をつづるのが当たり前の世の中になりましたね。
ここまで多くの人が個人のメディアを持つようになるなんて、ほんの10年前だって誰も想像していなかったのではないでしょうか。
Twitter、Instagram、ブログ、note……。
これらのプラットフォームにつづられる言葉は、当たり前ですが「人に読まれること」が前提になっています。
今この文章を書いているわたしだって、誰かが読むことを前提として言葉を選びながら書いています。
人に会うとき身だしなみに気をつかうのと同じように、人に読まれる文章も身だしなみに気をつかいますよね。
わたしの編集者としての仕事だって、「人に読まれること」を前提として文章の身だしなみを整えることだったりします。
ふと目に入った娘の走り書き
ある日のこと、1冊の束見本が絵本棚にあるのが目に入りました。
束見本とは、書籍で実際に使う紙、ページ数で製本された見本用の冊子のこと。
「束(つか)」というのは、本の厚さのことを指します。
デザイナーさんが表紙やカバーをデザインする際、背の幅にあたる「本の厚さ」を知る必要があるため、書籍を作る際は必ず印刷所に依頼して束見本を作成します。
中面には何も印刷されていないので「真っ白な本」という感じ。
本が無事発売され、役目を終えた束見本は捨てられてしまうことが多いのですが、もったいないので持ち帰って子どもたちのお絵かき帳にしていました(書籍編集者あるあるかも)。
そのうちの1冊が、たまたまその日、わたしの目に飛び込んできたわけです。
表紙に書いてあるタイトルから、現在11歳の娘が8歳のときにお絵かき帳として使っていたものだとわかります。
ほんの3年前ですが、子どもの成長はめざましい。
「こういうタッチの絵、描いてたなー」「今よりずいぶん幼い字だなー」などと懐かしい思いにひたりながら何気なくページをめくっていました。
そして、あるページでふと手が止まったのです。
紫色のペンでつづられた「Dear Diary」から始まる文章。突如現れた1ページだけの日記。
読んでみると、当時娘が思いを寄せていた男の子との出来事について書かれたものでした(当時インターに通っていたこともあり、英語で書かれている)。
親愛なるDiaryへ
今日はとても素敵で素晴らしい日。1つ目の理由は、○○くんからブレスレットをもらえたから。2つ目の理由は〜(中略:娘がその男の子がすごく好きだということが書いてある)〜。わたしはこの素晴らしい日のことを忘れずにいたい。
「Dear Diary」で始まり、「今日という素晴らしい日を忘れたくない」という願いで終わる短い日記。
誰かに読まれることなんて、1mmも期待していない飾り気のない文章。
これを読んだ瞬間、わたしはものすごい勢いで心を撃ち抜かれました。
ただただ「書きたいから書いた」「忘れたくないから書いた」という思いの純粋さに。
娘は、一体どんな思いで、どんな表情でこの文章を書いたんだろう……。
何ともいえない感情の波に襲われ、目頭が熱くなりました。
そして、自分の心に問いかけました。
わたしは普段、こんなまっすぐな思いで文章を書いているだろうか?
何も期待することなく、ただただ「この瞬間を忘れたくない」という純粋な思いで文章を書いたことがあるだろうか?
娘のまっすぐで透明な思いに、わたしの中の「濁った何か」を見透かされたような気がしました。
まっすぐな思いは届く、たとえ拙くても
普段わたしたちが目にする多くの文章の裏には、いろんな思いが渦巻いていることが多いです。
怒りだったり、自己顕示欲だったり、自慢だったり、ビジネスをうまくいかせたいという思いだったり。
もちろんそれらのすべてが悪いというわけではないのですが、勝手に文章の裏にある思いをキャッチしてしまうことってありませんか?
そのときのわたしは、大人の事情が渦巻く文章に、ちょっと疲れていたのかもしれません。
娘の文章には、表にも裏にもただただまっすぐな思いしかなかった。そのことに純粋に感動したんです。
上手な文章というわけでもないし(娘よ、ごめん!)、文法的に間違っているところもあります。
それでも、思いの純度が高ければ高いほど、澄んでいれば澄んでいるほど、その文章は心を打つ。
心を揺さぶられるのは、美辞麗句が連ねられていたり、テクニック満載の文章ではない。
娘の走り書きは、そんなことを教えてくれた気がしました。
束見本には、こんなページもありました。
この言葉にも「忘れたくない」という思いがあったのでしょうか?
その答えは、当時の娘しか知りません(笑)